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宿の歴史

鵜飼観光の料理旅館として広く愛された「いとう旅館」。
当時の知られざるエピソード、女将の想い、
そしてふたたび動き出した宿の物語を、時代を追ってご紹介いたします。
鳥のイラスト 鳥のイラスト

昭和20~30年代前半 1945 TO EARLY 1960

宿の歴史

菊の間

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松の広間

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桜の間

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松の庭

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当時の鵜飼

鵜飼上覧の際、要人たちの常宿として
愛され、小説や映画の舞台に。

紡績業が盛んだった戦前の一宮市で、商人や職人たちを癒やす商人宿だった「いとう旅館」。戦後、初代の女将・久江さんが、長良川の鵜飼観光で人気を集める岐阜市に移転。長良川畔で昭和21年「いとう旅館」を再開業させました。ここから、岐阜で愛された「いとう旅館」の物語が始まります。

当時の写真から風情あふれる外観が印象的な「いとう旅館」は木造瓦葺2階建て。昭和26年には東棟を増築しその盛況ぶりが伺えます。庭園で鵜飼見物ができる宿として、皇族や政治家をはじめ財界の有力者たちに愛され、昭和27年には、高松宮ご夫妻が鵜飼上覧に際して宿泊。そのほか、鈴木善幸元首相や二代目・伊藤忠兵衛氏、カンヌ国際映画祭で2度のグランプリを受賞した今村昌平監督も宿泊したといわれています。

また、小説家・舟橋聖一は当時の長良川沿いの情景を盛り込んだ長編小説「白い魔魚」を、昭和30年から翌年にかけて朝日新聞に発表。その際にモデルとなったのが「いとう旅館」です。

長良橋の下流は、その南岸に、上流は主にその北岸に、鵜飼のための料亭やホテルが軒を並べている。この宿は、一番下流だから、やや迂回する川に沿って、西北に面している (小説『白い魔魚』より引用)

舟橋聖一は、いとう旅館「桜の間」で原稿を執筆し、その雰囲気を小説に生かしています。昭和31年に映画化された際も、いとう旅館がロケ地として使用されました。季節外れの鵜飼のシーンでは、現地の全面協力のもと3月上旬に撮影され、当時の写真が岐阜市歴史博物館に所蔵されています。

昭和30年代後半~
平成、令和へ
1960 TO 2015

宿の歴史

昭和四十一年頃の外観

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当時の庭

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当時の鵜飼

先代の姪・照子さんが20代で女将に。
自分の代で幕は下ろさないと心に決めて――。

昭和30年代後半、久江さんの後を継ぎ20代で女将についたのが、久江さんの姪・照子さん。養女となり、中学卒業時から「いとう旅館」を手伝っていました。昭和43年の記録によると、客室は全部で8室あり、仲居、帳場の番頭、玄関番、厨房番など合わせて10名ほどで切り盛りしていたそう。あまりの忙しさに自分の部屋にもお客様を案内し、旅館の風呂場で眠る照子さんの姿もあったとか。

照子さんの弟で後に厨房番として働いた忠さんによると、「いとう旅館」の名物は鮎料理。長良川で獲れた鮎を木箱に積んで厨房へ運び、新鮮なまま鮎塩焼きにして提供していました。花火や鵜飼で賑わう夏場は宿も最盛期。川沿いに建つ「いとう旅館」には花火の特等席が設けられ、料理に舌鼓を打ちながら花火観覧を楽しんだといいます。また、毎月第2日曜には財界人たちが集う「朝風呂の会」が開催され、風呂に浸かりながら交流しました。

「継いだ以上は、自分の代で絶対に閉めるわけにはいかない」と志していたという照子さん。照子さんの晩年は行事に合わせて営業し、平成2年からは休業という形をとりましたが、決して看板を下ろすことはありませんでした。平成26年に照子さんが亡くなり、忠さんが遺品整理の折りに遺言書を発見します。そこには「岐阜市の観光の為にいとう旅館を役立てて欲しい」と綴られていました。平成27年、照子さんの想いを大切にしたいと忠さんが岐阜市に「いとう旅館」の土地建物を寄付。その後活用方法が検討されるものの、約6年もの月日が経ちました。そして令和4年物語は再び動き出します。

鳥のイラスト 鳥のイラスト

令和4年~現在 2022 TO PRESENT

宿の歴史

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宿の歴史

照明

宿の歴史

外観

宿の歴史

内観

バトンは受け継がれた。
旅館の軌跡を大切に、
新たな宿泊体験を。

令和4年、旧いとう旅館の活用に向けて実施された公募型プロポーザルで、岐阜の観光を支え続けた老舗旅館「十八楼」が選定されました。バトンを受け継いだ「十八楼」は「照子さんの想いに、深く心動かされた。歴史ある旅館の面影を残しながら、岐阜という街の魅力活性につなげていきたい」と、旧いとう旅館をリノベーション。令和5年5月、1棟貸しの宿泊施設「十八楼離れ 宿いとう」として「鶯(うぐいす)」と「燕(つばめ)」をオープンします。

新しい「十八楼離れ 宿いとう」では、構造や造作に至るまで、旧いとう旅館の味わいのある部材を生かし、かつての趣が存分に感じられる造りに。「桜の間」「竹の間」「松の間」「菊の間」「桔梗の間」「芙蓉の間」と植物の名前が付けられた旧いとう旅館の部屋は、それぞれ名前にちなんだ木材で建てられていました。竹の間の天井には高知県南国市の「四方竹」が使用されるなど貴重な木材も。その作り手のメッセージを大切にしたいと、桜の間にあった桜の柱は、鶯の1階に残されています。

また、最も印象的なのが「火打梁(ひうちばり)」と呼ばれる、斜めに張り巡らされた天井裏の梁。自然災害などで建物が変形しないように打たれた昔ながらの火打梁で、現存する建物にはほとんどありません。この貴重な火打梁を鶯、燕ともに残し、吹き抜け空間から圧巻の眺めを楽しめます。燕の梁には、初代女将の名と棟梁の名が記されているのもご覧いただけます。

そのほか、板をスライドすると室内に風を入れることができる「無双窓(むそうまど)」、丸太の竿縁(さおぶち)と細木の広小舞(ひろこまい)の上に板をのせた「竿縁天井(さおぶちてんじょう)」をはじめ、客室の「欄間(らんま)」、庭の「灯籠(とうろう)」や「蹲(つくばい)」、玄関の「踏石(ふみいし)」や「板塀(いたべい)」などは当時のまま。歴史の面影が一つひとつに息づいています。

戦後から令和まで人々の想いのバトンがつながり、ふたたび動き出した時間。当時の女将と新旧の職人技、美意識が響き合う宿で、新たな1ページが刻まれます。

当主よりご挨拶 MESSAGE

歴史的文化価値を受け継ぎ、
観光の力で社会課題の解決を。
それが私たちの使命です。

川原町の一角、元浜町にあった「旧いとう旅館」は、昭和21〜26年にかけて建築増築され、由緒ある旅館として多くの方々に利用されてきました。「旧いとう旅館」の建物としての価値は、戦後間もない昭和20年代に建てられた物件としてはハイグレードな木工事や造作が施されていることにあります。これは所在地である川原町が材木を中心とした商業により栄え、地域全体が財力を持っていたことを示しており、川湊がもたらした商業の繁栄の価値を帯びていると思います。

平成27年にご親族が「旧いとう旅館」を岐阜市に寄附採納された際には、旅館として活用されなくなってから相当の時間が経過し、岐阜市の所有となってからも手を加えられることなく6年余りが経過。建物の劣化が相当進んでいました。そんな困難のなか、旅館活用プロポーザルに手を挙げたのは、旧女将の強い意志に感銘を受けたからです。同じ川原町で旅館を営み、偶然にも同じ伊藤の姓を持ち、最後まで岐阜のまちづくりを願った女将の想いに触れたとき、この仕事を引き受けることが当社の使命であると思い至りました。

昨今、歴史ある空き家や古民家を、地域の資源としてどのように次世代へ継承していくのか議論されています。和紙、和傘、提灯といった伝統工芸品も同じです。私は観光産業こそがその解決策になりうると考えています。より多くの観光客にまちを訪れていただき、産業に触れ、価値を感じてもらうことで市場は広がっていきます。この「宿いとう」の新たな挑戦を始まりとして、観光が社会課題の解決となり、岐阜市の産業の柱の一つとなる日が来るよう、これからも微力ながら努力して参ります。

長良川の雄大さ、沈む夕日の美しさ、岐阜城の景色が独占できる「宿いとう」。かけがえのない歴史的文化価値を受け継ぎながらも、現代にあった滞在型の旅スタイルが、訪れるゲストも土地の人と同様に岐阜を愛するきっかけになれば幸いです。

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